飛行場めぐり

定期路線のある空港を見て回ってました

水戸神社

この書庫は写真比率が多くなるので実は結構書くのがいやである。
しかし、書庫を作ってしまった以上書かないわけにはいかない。
またしかし、ネタがないのは事実。


水戸神社というのをご存知だろうか。
当然のことながら水戸市にある神社であり、その所在は市民の間でまったくの謎扱いさている。
謎扱いというか、水戸神社自体が謎の代物と化している。
 
お正月しょっぱなから「水戸神社」とかいう謎の神社にお参りしようというのである。
本気でしょっぱなに神社参りすれば、いい根性しているなとは思うが…。
一応そこまでのぶっちぎりをするはずもなく初詣は無難に「吉田神社」。
吉田神社とはいうが、吉田神道とは無関係で「吉田大明神とねよばれる」とも書いてあるが、吉田大明神なんていっている人間を一人だって見たことはありません。
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ちなみに、こちらの祭神は「日本武尊」で、水戸に鎮座する神社の中では飛びぬけて古い。
戦災(震災ではない)の際に文書が焼けたためはっきりとしないらしいが、それでもBC470~490年だと推測されている。
日本最古ではないが、ほぼその年代の神社ということになる。
その割りにアメーバブログを開設していたりと、なかなかチャメッ気があるというか…。
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水戸神社はここにもお祭りされています。
 


今年の初詣も済んだところで水戸神社に向かう。
水戸神社は現在の「(史跡)笠原水道」に付近にあるので途中の街中はすっ飛ばして枝川緑地へと向かう。
笠原水道は心霊スポットとしても紹介されている意味深な場所である。
 
確かに、笠原水道は怖い、心してかからなければいけない。
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枝川緑地入り口に到着。
枝川緑地は記憶が正しければ5つのゾーンに分かれており、水戸神社はその中央のはずれに位置している。
このあたりは震災でズタボロになったものの、一応復旧している。
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さらに進むとアスレチック遊具が広がり、湿原の中を進むかのような状態でじりじりと進むことができる。
このあたりは地面もしっかりしているので、お年寄りには歩きやすい。
ポカポカしているのでお散歩に来るお年寄り多数。
かなりウラヤマシイ
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笠原水道水源。
この上が水戸神社であるが、それにはこの階段を上らねばならない。
 
段がいびつで、場所によっては5センチと幅がない箇所もある、本気で怖い。
しかしこの階段、あの震災をもってして歪むことさえなかったという安定性を誇る。
ある意味オカルトじみた話だが、そびえている木を見ればそれもそのはず。
人間の作ったコンクリートの基礎に比べれば、どっしりと大地に根を下ろしてそびえた樹木がどれほどの強さを持っていることか。
「絶対にこの階段は崩れたりしない」意を決してテクテクと上り始めると、
「ここで緊急地震速報とか受信したら、絶対転落死するよな」とまじめに考えてしまったりする。
 
と、階段を上りきると、
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笠原不動尊
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屋根は落ち、床ははがれて時の無常を感じずにはいられない。
心霊スポットにされるわけである。
しかし、「不動の意、厳たり」(水戸光圀)のとおり、龍が剣にまきついた様子はまさに「アスクレピオスの杖」
凛とした美しさがすばらしい。
というより、これほどすばらしいものが、こんな荒れ果てた寺に、こんな身近にあったとは…
まいど、こなきゃわからないものである。
 
少し先に進むと目的地水戸神社。
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案内板には「水戸七社の一つで、速秋津彦命をまつる。この社はもと江戸時代以前から水戸城東端の高台に鎮座して水戸明神といわれていた。光圀公の時、場内から吉田神社の境内に移され、その末社となった。(中略)この神社は天保14年11月に、現在の地に移り、水源地の守護神とされた。その神徳により水源の水をあくまで清めるためであろう。斉昭公は、排仏思想から不動尊を追放してこの神社にかえたのである」
とある。
つまりは水戸城東端、つまりは水戸第一高等学校あたりにあった神社を吉田神社に移し、その後この場所で水の守護神としたということで、吉田神社に社が残されたというのは納得がいく。
なお、光圀公は黄門様で斉昭公は偕楽園を作った人であり、この時代にかの「吉原殿中」が完成する。
 
途中とんでもない階段を上ってはいるのだが、茨城県水戸保健所から細い道が続いているので、階段を無理に上がる必要はない。